松尾芭蕉も愛した宿場町、草加で感じる歴史の趣と豊かな今!
松尾芭蕉も立ち寄った「草加宿」
草加は江戸時代に日光街道が整備された際、日本橋から2つ目の宿場が設けられたことをきっかけに発展を遂げた。宿場が整備される前の草加は沼地となっており、沼の埋め立てと宿場の造成に多くの草が使われたことから草加という地名が付けられたという。
日光街道は江戸から北にある各藩の参勤交代に使われたほか、日光への参詣でもにぎわった。「草加宿」は次第に規模を拡大し、1843(天保14)年の記録には南北約1.3kmにわたって本陣と脇本陣が1軒ずつ、旅籠は67軒が並び、人口は3,619人であったと記されている。
日光街道沿いを流れる綾瀬川では江戸時代中期から舟運が行われるようになった。「草加宿」付近には河岸が設けられ、物流の拠点としても栄えた。こうして「草加宿」は日光街道で「千住宿」、「越ヶ谷宿」、「幸手宿」に次ぐ4番目に大きな宿場に成長した。
1689(元禄2)年から奥州を旅した松尾芭蕉も「草加宿」を訪れている。江戸の深川を旅立った芭蕉は「千住宿」から日光街道に入り、その日の夕方に「草加宿」に到着した。この時の情景は「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」と残されている。
日光街道の名所「草加松原」
日光街道の「草加宿」の北側には松が植えられ、日光街道の名所として知られていた。第二次世界大戦後までこの松並木は残っていたものの、自動車の排気ガスや道路舗装の影響で多くが枯れてしまう。1976(昭和51)年に「草加松並木保存会」が結成されるなど、市民団体や埼玉県、草加市による保護活動が行われ、松並木が復活。現在は「草加松原公園」として整備されている。
こうした取り組みと歴史的な景観から、1987(昭和62)年には「日本の道百選」(※1)に、1988(昭和63)年には「利根川百景」(※1)に、2004(平成16)年には「美しい日本の歩きたくなる道500」(※1)に選ばれるなど、多方面から評価されている。さらに2013(平成25)年には国の名勝(※1)にも指定された。
(※1)参照:https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s2105/020/010/010/sokamatsubara.pdf
「今様・草加宿」で草加の魅力を伝える
現在も「草加宿」周辺には国の登録有形文化財に指定されている「久野家住宅店舗」や「須田家住宅(中屋)土蔵」をはじめ、「藤城家住宅外蔵」など宿場町の面影を感じられるスポットが点在する。
一方、近年の草加市は東京都心に近いことから住宅の開発が相次ぎ、「草加」駅周辺では再開発が行われるなど都市インフラ整備が進められてきた。このように周辺環境が変化する中で、「草加宿」周辺の住民と草加市は協力して街づくりを推進する団体「今様・草加宿」を立ち上げ、「草加宿」の歴史的遺産を現代的な視点で活かす取り組みを行っている。
「草加宿」でも売られていた草加せんべい
綾瀬川に近い「草加宿」周辺では古くから稲作が盛んに行われていた。「草加宿」では余ったコメを団子状にして乾かし、保存食として売っていたといわれている。当初は生地に塩を練りこんでいたが、幕末になって醤油が広まると、焼いたせんべいに醤油を塗ったものになる。こうして草加せんべいの原型が誕生した。
大正時代、同じ埼玉県内の川越で大規模な軍事演習が行われた際、埼玉の名産品としてせんべいが献上されたことをきっかけに草加せんべいの知名度が急上昇した。現在も約40軒のせんべい店が営業を続け(2024(令和6)年2月時点)、昔ながらの手焼きでせんべいを生産している店もある。
草加の魅力を満喫できる「草加宿場まつり」
「今様・草加宿」の取り組みの一環として「草加宿場まつり」がある。このイベントは「草加宿」を中心とした日光街道沿いを会場に大名行列などが繰り広げられる。焼きたての草加せんべい販売や「草加宿」の秘密を巡るウォークラリーなども行われ、草加の歴史と魅力を体感できる催しだ。
東京都心から近いながらも深い歴史に彩られた草加市。ここでは他の街では得られない満ち足りた暮らしを満喫できるだろう。
『ネベル草加ⅡPROJECT』HP https://www.leben-style.jp/search/nbl-soka2/
『ネベル草加ⅡPROJECT』概要 https://www.leben-style.jp/search/nbl-soka2/outline.html
松尾芭蕉も愛した宿場町、草加で感じる歴史の趣と豊かな今!
所在地:埼玉県草加市