今昔を知り「小江戸川越」の街並みを更に愉しむ
江戸時代から続く、要衝としての川越
川越は埼玉県内でも有数の長い歴史を誇る街だ。江戸時代の川越には「川越城」が設けられ、城下町が発展した。江戸時代に新河岸川の改修が行われると川越から江戸への舟運が盛んになり、川越には5か所の河岸が設けられるなど物流の拠点として栄えたという。川越藩の繁栄も続き、最盛期には17万石を誇る関東地方では水戸藩に次いで2番目の規模に成長した。
江戸時代の賑わいは明治維新後も引き継がれ、川越は埼玉県下最大の商業都市として発展を続けた。明治時代に川越で大火が起きた際、蔵造りの建物は焼失を免れたため、その後に蔵造りの建物が続々と誕生した。
一番街周辺にはこの時建てられた「蔵造りの町並み」が今も残り、観光客でにぎわう。鉄道の開通以後、川越の中心は徐々に南に移り、現在は一番街から「川越」駅周辺付近に商店街が広がるなど中心市街地となっている。
武蔵野台地の北端に位置し、安定した地盤が続く
川越の由来は平安中期から南北朝時代にこの地を支配した河越氏に由来するという。室町時代以降、川越という表記に変わり、江戸時代に入ると一般的に川越と書かれるようになったそうだ。
川越は武蔵野台地の北端に位置し、台地を取り囲むように荒川、入間川、新河岸川といった川が流れている。台地面は、比較的浅い部分から硬質層が出現しており、硬質層の上部もローム層と呼ばれる安定した土で覆われているため、住宅地盤としても良好。古くから人々が暮らしを営んできたことが伺える。
また現代の液状化の危険度をみても、川越南台周辺は「きわめて低い」危険度となっており、災害に強いエリアともいえる。
江戸の文化を今に伝える、「小江戸川越」
江戸時代の川越は江戸の北側を守る要衝として重視され、川越藩主は親藩・譜代大名とされていた。舟運により江戸との交流が盛んであったため、江戸文化の影響を強く受けていた。
“川越大師”として知られる「喜多院」は、江戸城の鬼門封じとしても配置されたという。川越大火で多くが焼失した際には、三代将軍徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部が移築された。これらは江戸城唯一の遺構として国の重要文化財に指定されている。
今もなお「川越まつり」や「蔵造りの町並み」などに江戸の風情が残るため、近年は「小江戸川越」とも呼ばれるようになっている。
また、川越の特産品としても有名な「さつまいも」、その始まりは江戸時代にまでさかのぼると言われ、当時江戸で流行った焼き芋は、川越産のサツマイモが“本場物”とされていた。
いまでも、小江戸川越をはじめ、川越市内のお店では、さつまいもを使ったスイーツやグルメの人気店が多数存在する。
川越の時を刻み続けた「時の鐘」
蔵造りの街並みの一角に立つ「時の鐘」は江戸時代初期に当時の川越藩主が建てたものが始まりと言われ、以降、川越の街に時を告げてきた。
大火で焼失する度に再建され、終戦後は使用されていない期間もあったが「時の記念日」とされている6月10日、1975(昭和50)年から再び川越の町に鳴りはじめた。現在も毎日4回鐘が撞かれ、その音色は「残したい“日本の音風景100選”」にも選定されている。
時代ごとの名建築が残り受け継がれる街並み
川越は明治維新以降も地域の経済の中心地で、時代の流行を反映した建物が残っている。埼玉県内初の銀行であった「第八十五国立銀行」は、現在の「埼玉りそな銀行 川越支店」へと続き、国の登録有形文化財の指定を受けている。
「武州銀行 川越支店」として使われていた「川越商工会議所」など、大正時代から昭和初期の銀行建築の様式が残る建物も複数ある。
「山吉呉服店」を起源とし、埼玉県内初の百貨店として建てられた「山吉デパート」は、現在の「丸広百貨店」となり、いまなお多くの人々の暮らしに彩りを与えている。
街の至るところに長い歴史が刻まれる川越。のんびりと散策しながら街の歩みを感じるのも心豊かなひと時になるだろう。
今昔を知り「小江戸川越」の街並みを更に愉しむ
所在地:埼玉県川越市