平安時代に難波田城が築かれ、江戸時代には舟運の拠点となった富士見市の歴史

埼玉県南東部に位置する富士見市は人口約11万人を擁する。1956(昭和31)年に鶴瀬村、南畑村、水谷村が合併し、富士見村が誕生した際に、ほぼ現在の市域が構成されている。

難波田氏の居城であった「難波田城」

水子貝塚公園
水子貝塚公園

「谷津遺跡」で約40,000年前の石器が発見されるなど、現在の富士見市内では古くから人々が暮らしていたことが伺える。今から約9,500~9,000年前の縄文時代には、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があり、現在の富士見市でも江川や柳瀬川の谷も海になっていたという。当時は海沿いに多くの集落が形成され、「打越遺跡」や「水子貝塚」などの大きな貝塚が残されている。とくに「水子貝塚」は国の史跡にも指定されている貴重なものだ。

弥生時代になると、日本全国に水田稲作の文化が広まり、現在の富士見市でも稲作が行われるようになり、多くの集落が誕生したと推定されている。埼玉県内最大級の集落跡である「南通遺跡」もこの当時の集落の跡で、300軒を越える住居跡が発見された。

「難波田城」跡地に造られた「難波田城公園」
「難波田城」跡地に造られた「難波田城公園」

平安時代から戦国時代にかけては、埼玉西部から東京北部を支配した村山党の一統である難波田氏の本拠地として「難波田城」が築かれた。現在、「難波田城」の跡地は「難波田城公園」として整備され、埼玉県の旧跡にも指定されている。

新河岸川の水運で栄え、第二次世界大戦後はベッドタウンへ

舟運で栄えた歴史を伝える「新河岸川開拓記念碑」
舟運で栄えた歴史を伝える「新河岸川開拓記念碑」

江戸時代に入ると、富士見市周辺は川越藩領と天領となり、江戸を支える近郊農村としての性格を強めていった。江戸と川越を結ぶ動脈として新河岸川の舟運が整えられ、現在の富士見市内にも6か所の河岸が整備された。河岸では江戸から送られた肥料や工芸品と、三芳・所沢地域から陸路で運ばれてきた農産物などが集積し、交通の要衝として栄えた。

「鶴瀬団地」が生まれ変わった「コンフォール鶴瀬」
「鶴瀬団地」が生まれ変わった「コンフォール鶴瀬」

1914(大正3)年に東上鉄道(現・東武東上線)が開通すると、物運の主役は鉄道に移ることになる。昭和30年代に入ると日本住宅公団の「鶴瀬団地」が開発されるなど、ベッドタウンとして発展し、人口が急増した。近年は、昭和30年代に建てられた団地が「アルビス鶴瀬」や「コンフォール鶴瀬」として建て替えされたほか、「富士見市立つるせ台小学校」が開校するなど、さらなる進化を遂げている。

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