江戸時代に開発された三富新田が広がる三芳町の歴史
埼玉県南部に位置する三芳町は、人口約3万8,000人が暮らしている。三芳という地名は、伊勢物語にこの付近が「三芳野の里」として描かれていたことに由来する。
旧石器時代から人々が暮らし続けてきた街
現在の三芳町内では「新開遺跡」や「藤久保東遺跡」から旧石器時代の石器が発見されるなど、古くから人々が暮らしていたことがわかっている。弥生時代に稲作文化が広まると、現在の三芳町内でも柳瀬川沿いの谷で稲作が行われていたという。
ただし、台地上に位置する現在の三芳町周辺では大規模な水田を作ることが難しかったため、奈良時代以降は赤松や楢など燃料になる木が豊富であったことを活かして、須恵器の生産が行われるようになった。
江戸時代になると、江戸と川越を結ぶ川越街道の重要性が増し、現在の三芳町周辺でも川越街道沿いに集落が発展した。今も当時の川越街道沿いには石碑が残されている。
江戸時代有数の規模を誇る新田開発が行われた「三富新田」
江戸時代になると、各地で新田開発が盛んになり、川越藩の領地であった現在の三芳町周辺でも多くの新田が開発されている。なかでも「三富新田」は現在の三芳町と所沢市にまたがる約1,300ヘクタールの広大な新田で、柳沢吉保の指揮により開発が行われたことでも知られる。
「三富新田」では短冊状に区画を区切り、道路に面して屋敷を置き、その奥に耕地、一番奥に雑木林を設け、それぞれ農民に配分している。この地割は現在でも残っており、旧跡として埼玉県指定文化財に指定されているほか、2017(平成29)年には、日本農業遺産にも登録された。
「三富新田」では関東ローム層が広がっていたため、雑穀が中心に栽培されていたが、サツマイモの生産が伝えられると、「三富新田」でも盛んに作られるようになった。江戸で「川越いも」が有名になると、「三富新田」で作られた「富のいも」はとくに人気を集めたという。現在もサツマイモは「富の川越いも」としてこの地で生産が続けられている。
高度成長期になると、三芳町も東京のベッドタウンとして開発が進められ、次第に宅地化が進められていった。また、国道254号や関越自動車道などの幹線道路に近いことから、工場や倉庫などが多く集まるようになり、物流の拠点としても機能している。